あらすじ

昭和46年、日本国有鉄道は東北新幹線の基本工事計画を発表した。停車駅設置予定は岩手県では盛岡、北上、一関の3つ。そこに「花巻」の名前は無かった。誰もが待ちわびていた東北新幹線、それが花巻市には停車しない。有力候補として期待された花巻市民の落胆は、想像を絶するものであった。当時、国鉄の決定は国家の決定であり、それに反旗を翻すなどもってのほか。発表と同時に誰もが諦めかけていた。

そこで立ち上がったのは、数名の熱い花巻市民であった。やがて「東北新幹線対策問題市民会議」が発足。時に戦略的に、時に直情的に、時に誠意を持って、粘り強く交渉を重ねていく。最初は冷淡な目で見ていた人々もいつの間にか応援し始め、花巻市行政とも、熱いタッグが出来上がる。やがてゆっくりと、国鉄が、国家が、彼らの声に耳を傾け始める。

 

 

新花巻駅設置物がたり記念碑

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新花巻駅にある記念碑「新花巻駅設置物がたり」全文

市民だれしもが花巻に新駅が出来るものと信じ込んでいたところ昭和四十六年(一九七一)十月「花巻に停車駅ならず」・・・・の発表、落胆と怒りとが交錯する市民が立ち上がり、直ちに体育館で二千五百人の市民総決起大会が開かれ、何故市街地から遠いところを通るのか、駅が出来ないという事は花巻の沈没で、将来とも発展は見込めない等ゴーゴーたる騒ぎとなった。 以来市民総ぐるみで駅設置の陳情が次々と行われた。 国鉄本社での陳情の際、話が噛み合わず、駅設置市民会議議長の小原甚之助が、国鉄常務につめより問答するなど、激烈なものがあった。 その間用地は絶対に国鉄に売らないと多田精孝他、市民会議のメンバー数名が雪の降る寒い夜一軒毎に歩き地権者一八六名から、白紙委任状を取って対抗した。 ほとほと困り果てた国鉄側は「将来駅が出来るよう、工事設計上に配慮する」旨の金原工事局長、県知事、八重樫市長とのいわゆる三者協定が締結された。 それを機に用地の立ち入り、そして用地取得確認書の調印がなされ、市議会には藤山整一氏を委員長とする、特別委員会が結成され、又中村知事を顧問、藤田万之助市長を会長とする駅設置期成同盟会が設立、更に強力に陳情を重ねた。
五二年一月、三国丑蔵商工会議所会頭が中心となり、駅を造るにはまず土地の確保と、各自一坪を献上する運動の展開。 更には、遠野、釜石、宮古方面を含む駅勢圏三十万人の大署名運動開始。 膨大な、陳情書を運輸省、国鉄、知事へと持ち込んだ。 その間隣接の市町村長の協力、更に高橋清孝議長を中心に、駅勢圏関係県議会議員の結成する、強力な連盟組織が出来た。 五五年、伊藤祐武美議長の強力な推進により、駅設置の可能性を記した東大教授八十島構想が出来、関係機関への陳情に一層の力を添えた。
五六年一月、国鉄高橋技師長は、駅が出来る可能性の示唆をされた。 弾みのついた市民は、早期実現をめざし文化会館に知事、国会議員を含め三千人の市民早期実現決起大会を開催、一層の盛り上がりを見せた駅設置の最初の提示額は、八十二億円(当時市の予算一二八億円)次に五十五億円で全額地元負担、という条件が提示され、そのため市内十三団体による資金調達の協議に入り、高橋荘三会議所会頭を会長とする、駅設置対策協議会を結成、市民各位、各種団体からの募金が展開された。 但し地財法の規制で自治体は国鉄に金を出してはならない。 花巻駅実現のためその法律改正の運動がなされた。
これにもかなりの時間を要した。 その間、県内国会各議員の活躍により五六年七月第百国会において法律改正がなされ、地元自治体を含めての負担の道が開かれた。 総額四十一億八千万円、中村知事の英断で県が三分の一を負担することに決定、県、市、隣接市町村の協力の他、花巻市民各位、各種団体から併せて一万四千九百余人、十一億八千五百万円余の寄附により出来上がりました。
このように運動を重ねること十四年と二百数十回の陳情を重ね、ここに表すことの出来ない多くの方々の御努力により、二面二線十二両対応のユニークな駅が昭和六十年三月に開業となったのです。 これを踏襲した吉田功市長は更に四十ヘクタール十七億余の投資で駅周辺の区画整理や環境整備を行うなど、全国初の全額地元負担のまさに「おらが駅舎」が出来上がりました。
ここに、市民が力を合わせて、この大事業を成し遂げたことを、末永く後世に伝え、ますますの弥栄を願って新駅開業五周年を記念しこの碑を建立する。

当時の東北新幹線問題対策市民会議
議 長 小原甚之助
副議長 照 井 正 一
副議長 佐々木四郎
副議長 梅津健一郎
平成二年(一九九○)三月吉日  建立

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